リアリティ

幸福「感」

 

不安「感」

 

・・・

 

恐れも、幸せも、結局自分が「感じるか、感じないか」ひとつなんでしょうね。

 

考えで、「幸福感を得よう」といくら考えたところで、感じられるわけでなし。

 

逆に、感じている「不安感」、「恐怖心」をいくら考えで消そうとしてもけせるものではありません。

 

それくらい、「不安感」というものの「リアリティ」は凄いんだということです。

 

結局、この「リアリティ」だけが問題なのではないでしょうか?

 

同じ状況であっても、極端な話余命を宣告された状態であっても、「不安」を感じていないのであれば、そこには不安は存在しないわけです。

 

その人は平静なのでしょう。

 

逆に、ほんのささいな(と他人には思える)こと、それに対して、本人が「不安感」、それも強い不安感を抱えているのであれば、それは紛れもなく現前します。

 

ある人は死の直前にしか感じないような不安感を、別の人はちょっとしたことで感じているかもしれません。

 

結局、どこまでいっても、その人が置かれている状況そのものが問題なのではなく、その人の感じているその「感じ」のリアリティこそが問題なのだということです。

 

そこが、根本的に誰かと分かち合えない部分なのかなと思っています。

 

自分の感じている「恐怖心」、これの「原因」とされる事態が、世間一般から見て「軽い」とされるものだった場合、その人が紛れもなく感じている激しい「恐怖」は、周りから正当に認められないんじゃないでしょうか。

 

「命にかかわる病気」などであれば、「ものすごい恐怖を感じています」と声高に主張もできるでしょう。

 

ですが「たいしたことのない事態」で、同様に強い恐怖を感じていると主張しても、「それはお前が悪い」(または弱いだけ)となってしまうのではないでしょうか?

 

直接的に相手に伝達できるテレパシーのような手法があれば別ですが。。

 

そこに、「相談できない(できにくい、わかってもらえない)悩み」が生まれるんじゃないかと思うんです。

 

圧倒的な「恐怖」を感じているただ中で、「自分の責任だ」となったとこで、その恐怖心が1ミリでも和らぐわけではないのですがね。

 

そのただ中で、どうやったら恐怖が和らぐのでしょう?

 

自分も知りたいです。

 

いつもは、結局「時間が解決する」といった感じです。

 

もしかしたら、それ以外の方法はこの世に存在しないのかもしれませんが。。