自分の名前

「自分の名前を唱える」。

 

この本に載っていました。

 

 

神秘の門

神秘の門

 

 

スピリチュアルです。

 

僕は自己啓発本が好きでよく読みます。

 

仏教の教えのものや、精神科医の方が書いた本、ビジネス書も読みます。

 

僕の中ではひとくくりに自己啓発本と思っています。

 

上記の本は最近買ったものです。

 

韓国のスピリチュアルな方面の方のようです。

 

これまでいわゆる「スピリチュアル本」には「ほぼ」手を出していませんでしたが今回買ってみました。

 

その中に出てきたのが「自分の名前を唱える」です。

 

一週間必死に唱え続けろと。

 

病気を治す方法、として書かれていました。

 

もちろんこれだけで病気が治るとは思いません。

 

すべての民間療法、健康法と同じくです。

 

でもやってみて失うものもないですし、健康法のひとつとしてやってみようと思いました。

 

最近の圧倒的恐怖心をなんとかしたい一心で、仏教徒でもなんでもないのに「南無阿弥陀仏」とか、なにか唱えることで軽減できないかと試したりもしていました。

 

それくらいここ数週間追い詰められていました。

 

ただ、「南無阿弥陀仏」は仏教に十分帰依したひとじゃないと効果が薄いのでしょうね。

 

なにかぴんとこないというか。

 

思い入れがなさ過ぎて、効果を感じられませんでした。

 

でも、自分の名前というのは否が応でも思い入れがあります。

 

「仏」に救いを求めて唱えるのに何か違和感があったのですが、自分の名前でしたら僕は唱えることが出来ました。

 

ぼそぼそでいいので声にだして唱えます。

 

人前では聞こえない程度にですが。

 

まぁぶつくさ言ってる変な人と思われてもかまわないです。

 

その人と今後の人生で2度とすれ違わないかもしれないわけですから。

 

スピリチュアルな事象の大抵に言えることなのかもしれませんが、根拠はないわけですよね、科学的な。

 

エビデンスというのでしょうか。

 

その世界の人でしたら「ある」というのかもしれませんが。

 

興味のない人からしてみたら、根拠はないわけです。

 

でも、結局、「ある程度信じてみる」ことが大切なんじゃないでしょうか。

 

「唱える」にしても、まったく信用せずに続けることはできないし、ある程度信じたほうが、実際、効果が上がりやすいのではと思います。

 

少なくとも気分的には実際変わりました。

 

そこを求めてもいたわけですから、その意味でよかったです。

 

信仰というのも、神(なのか呼び名は色々でしょうが)が実在するというリアルな感覚があるかどうか、なのでしょう。

 

実在する証拠がないとだめとか、そんな話ではないわけです。

 

信仰している人からすれば、実際にいると「感じられる」わけですから、その人にとっては実在しているわけです。

 

結局、なににつけても、「感じ」の「リアリティ」こそがこの世の真実なのでしょう。

 

といってもこの考えは自分で考えたわけではなく、名越さんという精神科医の方の受け売りです。

 

テレビにもよく出ていらっしゃるのでご存知の方もいるかもしれません。

 

 

 

「感じ」の「リアリティ」がすべてだというのは、上記の本に書いてありました。

 

最近の救済を求める読書の中で改めて出会いました。

 

この本自体は前から持っていましたが読み直したんです。

 

上の発想はいま出会えてよかったです。